一切唯心造

一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)
「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。
「唯」とは、ただそれだけ(・・・・・・)のことです。
私たちの周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したものにすぎないと書かれています。
すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しないといっています。

これは 臨済宗・黄檗宗派の公式サイト「臨黄ネット」で紹介されている禅語の解説です。

ずいぶん以前に京都のお寺のホームページを見てまわっていたとき とても印象に残ったのでメモしておいたものです。


これにはあるお話が一緒に載せられています。


私流でお話させていただきます。

白隠禅師というお坊さんがあるときひとりの若侍から「地獄はあるのか。」と地獄の有無を問われました。

白隠はこの若侍を一瞥(いちべつ)するとこう言いました。
「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあきれたことだ!」
とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!とののしります。

若侍は名のある高僧のいうことと歯をくいしばって耐えていたのですが、とうとうついに我慢も限界に達します。

突然刀を抜いて白隠に斬りかかってしまいます。
和尚は巧みに逃げまわりますが、追い詰められて一刀斬りふせられようとしたその瞬間、
 
白隠は「そこが地獄だ!」と厳しく大声で叱り付けました。


その一語を聞くやいなや 若侍は我に返り正気を取り戻します。

「なるほど!」 と得心した若侍、 さきほどの鬼の形相はどこかへ消えうせ 思わずその場にひれ伏して、微笑みながらこう言いました。

「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました」と。

すると その様子を見て 白隠もにっこり笑って、「そこがまた極楽よ!」と何もなかったように言い切りました。


地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。
地獄の有る無しは心が造り出したものにほかならないのです。

有無・得失・善悪・美醜・愛憎など、いっさいの相対する差別する見方も、これすべて心の造り出したものだと言っています。
相対的世界がこころにあるからそこに争いがおこり、悩みがあり、迷いが生まれるわけです。
この世のすべて 「一切唯心造」と悟れば、自然にそれらの対立は消えてなくなり、ありのままの心になることができるのです。


いかがでしたでしょうか?


こころは自分の現実を造ります。

わたし自身 忘れないようにこの機会にブログに残しておこうと思いましたので・・・。





posted by urara at 2007-11-27  | Comment(7) | 日記

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